見た目じゃなくて中身を見てよ?なんて
お久しぶりですこんにちは。
私もパソコンも元気になったので、またぼちぼち更新していこうと思います。(2016年初投稿だと…www)
今回は
『中身を愛してほしい。見た目で判断しないで』
『ほんとの私はそんなんじゃないのに他の人が勝手な評価をする』
この辺の悩みについて考えてみようかな、と。
①『中身を愛してほしい。見た目で判断しないで』
恋人ができないと嘆いていたとき、「いくら中身がよくったって、見た目がよくなければ話しかける気にもならないし、結局きっかけは外見だ」と、私は父親に言われました。(あとにも先にも父親に受けたアドバイスはこれだけかもしれない)
知らない人が作った見た目の汚いケーキ食べたいですか?って話になってくるんです。仲良い子がつくってくれたケーキの見た目が少々悪くても食べれるかもしれないけど、知らない人が作ったケーキの見た目が悪かったら食べるの怖くないですか?要は見た目をきちんとすることで信頼を得てるってこと。
容姿に関しては遺伝子変えられないし人によって好みも違うんで、何か正解があるとは思いませんが、好感度や信頼度を高めるという点では、ある程度一般的な正解があるはずです。(じゃないと接客業できる人が限られちゃう)
そこを努力しないで「中身を見ろ!」というのはおかしな話なんじゃないかな。
②『ほんとの私はそんなんじゃないのに他の人が勝手な評価をする』
自己評価と他人からの評価にズレがあるっていう悩み。この悩みが生じるとき、ズレてるのは大抵の場合、自己評価。周りにいる他人がよっぽどの性悪とかじゃない限り、他人からの評価っていうのは文字通り「他人から見た自分」なわけです。
あくまで「自分が理想とする自分と他人からの評価」にズレがあるから、この悩みが生まれるのかなーって思います。
だって中身はどうであれ、他人から、自分はそう見えてるんだもん。もしほんとに本質がわかってもらえてないのだとしても、それは自分の魅せ方が悪いってことだし。
①も②も「納得がいかないから自分の本質を見て、正当な判断を下して欲しい」と願ってる。自分では変えられない見た目のせいにしてるだけかな。
この手の悩みは、ただ「自分の理想通りに自分のことを見てもらえない」ということへの不満でしかない気がする。『私はこんな人間のはずなのに』というのと『他者からの評価』があまりに乖離していたら、この手の悩みを聞かされる立場としてはあまりに滑稽だ。
理想通りの自分に見られたいなら、理想通りになるしかない。それには本質を充実させることももちろんだし、それをどう他人に魅せられるか?というプレゼンテーション能力も、とっても大事。
理想は、「どんな時も他人の評価を聞き入れられる自分でいること」なのかなぁと私は思ってます。『自分はこんな人間なのに他人は違う評価をする』自己評価と他人からの評価がある程度一致してる人は無理な背伸びをしてないということだし、なんやかんや言ったところで理想と現実は違う。
「他人が評価してる自分」が社会の中で生きてる自分なんだもの。
twitterやってると、『ありさちゃんはキラキラアカウントだ』って言われることがあるけれど、いくら私が違うと言ったとしても(実際はどうであれ)そう思う人がいるんだったら、私のつぶやきの中にキラキラアカウントの片鱗かなにかがあるんだと思う。みたいな。
140字やそこらで人間性伝えられるか!っていうならそれこそ魅せ方の問題になってくるわけだし。
他人の評価に振り回されろっていう話ではないんだけど、いろんな人がいる中で生きてるなら、ある程度他人の評価にも、耳がいたくても耳を傾けなきゃ最後は孤立しちゃう。それはそれでありだけどさ。笑
『理想の自分』と、『自己評価』と、『他人からの評価』が一致したときには、理想の自分になれてるのかな。いや、理想なんてどんどん高まっちゃうものだからそんな日はこないんだろうな。笑
…相変わらず長い文章になっちゃいました。
私も 懲りないですね。笑